全てが終わり、因果により囚われていた白銀武という存在は解放されるはずだった。
 最早何もせずとも、己の望む世界へと帰ることができる。
 鑑純夏によって再構成された幸せな世界が、両手を広げて待ってくれているのだから。
 その世界には、これまで白銀武が共に戦ってきた、背中を預けてきた、愛していた相手がいるのだから。
 何千何万の繰り返し。幾万幾億のループ。
 因果導体という枷を外され、永遠に続くかと思われたやり直しから抜け出すことができた白銀武という意識の多くは、当然のように平和な世界を望んだ。そこに幸せがあるのだから、それを望むのは間違いではない。
 だがしかし、全ての白銀武がその道を選んだわけでもない。
 因果導体から解き放たれたことにより鑑純夏の無意識領域に掠め取られていた記憶を取り戻した、白銀武の意識のうちの幾らかは、鑑純夏の再構成した世界へと行くことを拒んだ。
 それは鑑純夏が憎かったからではない。
 白銀武は鑑純夏を憎めない。
 だから、再構成された世界を拒否した白銀武達には、他の理由があったのだ。
 ――まだ終わっていない。
 ――これでは俺だけしか救われない。
 ――BETAに蹂躙された世界で死んだ、あいつらは無駄死にになってしまうじゃないか。
 ループを繰り返した末にまた統合される事になった白銀武達の中には、確かにそう叫んだ者達もいたのだ。
 あんな結果なんて認めない。
 ここでループは終わらせない。
 BETAを駆逐して、せめてあいつらが戦わないでいいようにしてやりたい。
 鑑純夏によって再構成された世界へ向かうことを選ばなかった白銀武達はそう力強く主張した。
 失わないために戦うのだと。大切だから守るのだと。
 そういった思いを抱える複数の白銀武達の意識は集合して、再構成された世界へと向かう白銀武とはまた別の統合体を形成した。そして、異なる白銀武と鑑純夏へと別れを告げて、自身は戦場へと舞い戻る事を決定したのだ。
「悪いな。頑張れよ、お前ら」
「……ついてきてはくれないの?」
「俺にはまだ終わらせてないことがある。純夏、お前のことは横にいる俺に任せるよ。お前も、それでいいよな、俺」
「任せとけ。それよりも、お前こそ冥夜や先生達のこと頼むな」
「ああ」
「――死ぬより辛いめにあうかもしれないよ?」
「それでも、引けないことってあるだろ? 全部思い出した今なら、それが分かる。だから行くんだ」
 それは鑑純夏が世界を再構成する直前。
 その瞬間だけは全てのループが混ざり合い、全ての白銀武という因果が混濁し、全ての時間が並行していることを利用した白銀武達の抵抗。
 違う世界へと旅立つ鑑純夏と自分自身を見送りながら、なおも戦い続けることを望んだ白銀武は、一人未来への咆哮をあげた。
 物語は、再び運命の分岐点より始まる。




   MuvLuv Last Alternative




 2001年10月22日。何度も繰り返したその日に、武は帰ってきた。
 ただし今回はこれまでのループとは異なる。
 因果導体は既にない。純夏より武は解放された。それゆえにこれが最後の戦いとなる。
 今までのようにやり直しは効かない。万全に万全を期すことが必要となる。
 廃墟になってしまった自宅の部屋の中で、武は軽く体を動かしながら、これまでのことを思い出した。
「――覚えてる。全部、覚えてる。皆のことも、それにこれまでの繰り返しも」
 何度も実際に死んだ記憶。
 仲間と共に過ごし、共に戦い、それなのに結局BETAを駆逐できなかった悔しさ。
 守りたかったはずなのに、結局は守られるだけだった自身への憤り。
 そして今回こそは全てをやり遂げるという決意。
 ループという繰り返しの中で積み重ねた記憶の多くを、武は覚えていた。純夏との別れの言葉も、全て。その脳髄の中へと刻み込んでいた。それらの記憶を鮮やかに持っているからこそ、死なせてしまった人たちを守ろうと強く想うこともできる。
 幾つもの意識が統合されている武の意識の中には、大切な仲間たちとの記憶で溢れていた。
 強く拳を握り締める。
「あづッ――。くそっ、思い出しすぎると、頭痛が」
 だがしかし、一つの頭の中に幾重ものループで得た記憶が収まっている状況は荷が重過ぎるようで、記憶を思い出そうとするたびに鋭い頭痛が走って武の思考を中断した。一つの事柄を回想しようとすれば何百もの似た記憶を思い出してしまい、それが脳の処理能力を大幅に上回らせるのか、激痛へと繋がる。
 反射的に武はうずくまって、回想をやめた。
 痛みが引くのを待つ間、頭の中を空っぽにして頭痛が治まるまで深呼吸を繰り返す。
 思考を穏やかにさせていけば、やがて酷い頭の痛みは消えていった。
 そこでようやく武はまた立つことができた。
「……ちょっと俺の脳味噌は、やばいことになってるのかも、しれないな。なるべく、ループの記憶を思い出すのは、――いでッ、やめておいた方がいいんだろうなコレは」
 そう考えても反射的に昔の事を思い出しそうになって、また激しい頭痛が武に押し寄せる。
 何度も繰り替えしてきたループの記憶が頭の中で飽和して明滅するたびに、耐え難い痛みが生じる。
 頭を金属の輪で締め付けられるようなその痛みは、何度も死を体験した武であっても、我慢が難しい種類のものだった。
 だがしかし、痛みを意識すればするほどに、過去の記憶を反射的に思い出してしまう。
 痛みを抑えようとすればするほどに、記憶が思い浮かんで痛みが増すという悪循環。
 気がつけば武は再び膝をついていた。
 そして今度は我慢することができずに床へと倒れてしまう。
「あ、ぐ、――ぎッ、くそ! 何で、こ、んな――」
 これから全てを救わなければならないという意思すら砕きかねない痛みの襲来に、武は床を這いながらも、そう声を荒げることしかできなかった。純夏にかすめ取られることなく、蓄積していった記憶が一つの頭の中に収まることで、ここまでの痛みを生むとは、まったく予想さえしていなかったのだ。
 歯を噛み締めて、立ち上がろうとするが、それもできない。
 かろうじて床を這うだけで精一杯で、それだけでも脂汗が顔中に浮かび上がった。
 拳を強く握り締めることで、何とか武は痛みを耐えようと努めた。
「俺は、やらなきゃいけないことがッ、――山ほど、あるってのに!」
 武は怒涛のように押し寄せる痛みをじっと堪えた。
 頭の中に勝手に浮かんでくる、幾つもの記憶が脳髄を圧迫するが、その記憶の中の仲間達の姿を強く認識することで、真正面から痛みを受け入れる。激しい痛みにさえも、折られることが無かった仲間達のことを想えば、どうにか自分も痛みに折られることだけは回避することができた。
 それは純粋な痩せ我慢。
 武は押しかかってくる痛みを、今度は真正面から受け止めることで耐えようとした。
 ぐぎっ、と悲鳴が漏れるが、過去にそれだけの痛みを感じたことがないわけではない。
 そう思うことで、痛みに負けそうになる自分を叱咤する。
「ああ、くそ。――純夏が、俺からっ、記憶を奪ってたのは、こうなることを、知っていたからなのかもしれないな……!」
 ようやくそこで痛みを受け入れて、武は両足で立つことができた。
 痛みに両足は震え、意識は飛び掛っている。
 だがそれでも倒れる事は無く、二本の足で自重を支えることができている。
 ならば歩かなければならない。
 時間は無いのだ。
 やり直しが利かない以上、時間は限りなく有効に活用しなければならない。痛みに震える時間など、あっていいはずがない。
 武はそう考えて、歯を食いしばり、自身の意識を破壊しようとする膨大な記憶と戦いながら横浜基地へと向かって進みだした。


   /


「……あずッ、畜生」
 そして二時間ほど経過した頃。ようやく武は横浜基地まで残り三分の二程度の距離までたどり着いていた。
 隙あらば思考を飽和させようとする記憶の逆流が、絶えず痛みの信号を発したために、思うように体を動かすことができない。
 積み重なった幾重ものループの記憶は、一つの肉体には持て余すほど膨大だった。
 それは脳の記憶許容量を超えるほどの時間、武が延々とループを繰り返してきたことを意味している。
 何度も何度も何度も、死んだ。
 何度も何度も何度も、絶望した。
 何度も何度も何度も、涙を流した。
 そんな記憶が頭の中で渦を巻いていれば、普通は耐えられるはずが無い。
 だが、それでも武は記憶に押し潰されて壊れることなく、かろうじて歩みを続けていた。
 時に倒れ、時によろめきながらも、進むことだけはやめない。
 足を前に出し、倒れれば這い、着々と距離を詰めていった。
 ただ、仲間たちの未来を守ろうと考えて。
 ――だが、その想いも必ず報われるとは限らない。
 唐突にがさりっという音が鳴った。
 今、武が歩いている場所は廃墟である。
 人が住めるような環境ではない。
 苛烈な戦闘による後遺症が、今もまだ深く残っている。そんな場所だった。
 だから人が住んでいるはずが無い。
 そこはBETAによって蹂躙しつくされているのだから。
 もし仮に物音を立てる存在があるとすれば、それは人以外の何かになる。
 痛みに心が折れそうになる中で、武は状況に気づいて立ち上がった。そして身構える。
「何だってんだよ……。繰り返したループでも、基地に着く前に襲われたことなんて、数えるほどしかなかったはずなのに」
 呟きに呼応するように、今度はカランという硬質的な音が鳴った。
 咄嗟に音源の方向を見てみれば、人類の天敵が、武をじっと見つめていた。
 Beings of the Extra Terrestrial origin which is Adversary of human race。
 人類の天敵であるそれは、武の姿を確実に捉えている。
 そして視線が交錯した直後には、BETAは武へと飛び掛ってきていた。
 咄嗟に武は痛みを無視しながら横手に転がることで、攻撃を避ける。
「あ、――ずッ、ぐアァッ!」
 ごろごろと地面を転がるだけで、耐え難い痛みに襲われる。
 乱雑に浮かび上がる記憶が、武の意識をやすりにかけるように削り取っていった。
 だが、その痛みに囚われれば確実にBETAによって解体され、新たなBETAの材料とされてしまう。
 誰も救えぬままに、そんな末路を迎えることだけは認められない。
 武は転がり終えてから、すぐに体勢を立て直して、何も確認せずに後方へと跳躍した。
 一瞬遅れて、それまで武が転がっていた場所を、BETAが砕く。
「……間一髪かよ」
 そこでようやく武は周囲を確認する時間を作れた。こめかみ付近を、冷や汗がたらりと流れていく。
 一瞬で状況を確認して、武は近くには他のBETAがいないことを確認した。
 敵は兵士級が一体。俊敏性に勝る闘士級や、強力な戦車級の増援がなかったことが唯一の救いだろうか。
 複数のBETAに生身のまま囲まれれば、かつてのループの中で幾つものハイヴを陥落させてきた武であっても、逃げることは至難だ。だが、相手が一体だけなら、まだ状況をひっくり返すことはできる。
 先ほどから金属棒で頭を滅茶苦茶に殴られ続けているような激痛が続いていたが、それを無視して武は廃墟の建物の近くへと走った。何か、武器になる物を探す。追いすがってくるBETAの攻撃を紙一重で交わしながら、武はとにかく応戦するために使えそうなモノを探した。
 だが、そう都合よく武器などは落ちていない。
 周囲に使えそうな道具が無いことを確認した武は、すぐに方針を転換して一目散に逃走することを決めた。
 傷をつける手段も無い相手と踊る趣味などない。
 永続的な痛みに顔をしかめながらも、それでもBETAの追撃をぎりぎりで避ける。
 何度も繰り返したループの中で、生身のままBETAと戦うはめになったことは一度や二度ではない。
 その経験を、膨大な記憶の中から引き出しながら、例えみっともなく地面を転がりながらでも、BETAの魔手より逃れていく。
 そして走った。
 痛みが動きを阻害しようとしたが、屈するわけにはいかない。脳髄をミキサーにかけられるような表現しがたい痛みに思考の大半を奪われながらも、それでも武は死なないために走った。
「……せめて、基地にさえ、たどり着けれ――ぐ、ァッ」
 だが、世界はループした武を嫌うかのように、試練を与え続けた。
 突然それまでの頭痛の中で最大のものが押し寄せてくる。
 脳を揺さぶる激しい痛みに、武は呼吸することすらも忘れて、動きを止めてしまった。
 それは本当に僅かな時間。
 そしてBETAが人を狩るためには十分な時間だった。痛みに抵抗しようと武が歯噛みして、逃走を再開しても、もう遅い。
 直後。BETAの魔手が武を捕らえた。
 とっさに身を捻ることで武は直撃こそ回避できたものの、その鍛え抜かれた体は大きく吹き飛ばされた。
 不必要なほどに綺麗な放物線を描いて、そのまま近くにあったコンクリート塀の残骸へと激突する。
 ごきり、と肋骨の折れる甲高い音が鳴った。
「あ、……くそ。マジかよ――」
 一瞬だけ、意識が飛んだ武は半ば反射的に体を横へと転がした。
 その判断が明暗を分ける。
 追いすがってきたBETAは、淡々と武の頭部が存在していた場所を蹂躙していた。
 コンクリートが容易く破壊され、地面が抉れる。
 大小のコンクリート片が飛び散り、その内の一つが武の頬に赤い線を刻み込んだ。
 何度も体験したはずの冷たい死を感じさせられる。
 そして今回やり直しはきかないと分かっているだけに、武に襲い掛かる恐怖は並々ならぬものがあった。
 ただこの時だけは、頭を切り刻む痛みを忘れて、体を硬直させた。
(……こんなにあっさりと終わるのか? あの繰り返しの日々も、認められない結末も変えることができないまま)
 武が身動きを止めたことを観念したとでも判断したのだろうか。
 BETAはそれまで逃げる武を追いかけていた時とは打って変わって、ゆっくりと武へと近づいてきていた。
 その姿を目にすることで死のイメージがさらに強くなる。
 逃げ場は見つからない。
 そして折れたアバラの傷は深いらしく、体力的にも逃げ続けることは許されそうに無かった。
 本当に絶望的な状況。
(くそっ、畜生オッ! もう一度皆に会えないままに、こんなことになるなんて――)
 記憶に圧迫される頭は未だに激しい痛みを訴えている。
 BETAに折られた肋骨のダメージも、じわじわと武の体から熱を奪っていた。
 これまでループを続けてきた経験からも、BETAと組み合って勝てるはずがないという答えが出ている。
 勝算の見えない終わり。
 それが近づいた時、武にできることと言えば常に戦い続けてきた仇敵を憎むことぐらいだった。
(例えここで殺されたとしても、いつか必ず俺がお前らを殲滅してやる)
 何千何万という意識が所持した記憶に押し潰されそうになりながらも、武は純粋にBETAを憎んだ。
 接近してくるBETAを射殺せるほどに強く睨む。
(絶対、絶対だ。――お前たちだけは殺す。確実に殺してやる)
 ループを繰り返すたびに分断されることで生まれた何千何万という意識が、その瞬間にだけは重なった。
 どのループでも等しく敵として立ちはだかった相手を、呪う様に嫌悪する。
 この瞬間に全ての白銀武は、一部の乱れもなく、BETAを殺してやると叫んだのだ。
「無礼るなよ、BETA! お前だけでも道連れにして殺してやる!」
 そして、その悪足掻きが逆転の奇跡を呼び込んだ。
 一つの頭の中でばらばらに乱立し、そのために痛みを生んでいた思考が“BETAを殲滅する”という強い目的を得たことで、力をあわせていく。何千何万という白銀武の意識が細胞の一つ一つに宿って、目の前のBETAを殺せと主張した。
 直後、頭に霧をかからせていた痛みが消えて、代わりに幾多の思考が並行して目の前の化け物を殺すための手段を模索し始めた。
 ループの中での莫大な記憶を詳細に洗い直し、現状に適応できそうな経験を呼び起こし、全ての意識がそれを共有する。
 一つの体の中に詰まった、白銀武の統合体は、もう一度だけ叫び声を上げた。
 意味すらもたない純粋な方向を、喉元から迸らせる。
「――あああアアアアァァツ!」
 そして武は、そのままBETAを殺すために駆け始めた。
 意識は異常なほどに冴え渡っていて、敗北する不安などは欠片も無かった。


   /


 その日。香月夕呼の元へと奇妙な報告があった。
 全身を負傷した、認識票を持たない衛士が現れて夕呼への連絡を求めているという。
 衛士の名は白銀武。夕呼がまるで聞いたことの無い相手。
 だがしかし、どうやらその衛士は夕呼のことを良く知っているらしい。

 ――空の上で進んでいる計画を止めにやってきた。

 その言葉だけで、白銀武がどういった種類の人間であるのかは想像することが出来る。
 夕呼はこの忙しい時期に、無駄な時間を浪費することは趣味ではなかったが、それでも放置しておくわけにもいかない。
 逡巡の末に、夕呼はオルタネイティブ5を知る男と会ってみることにした。
 そしてその邂逅こそが、人類の大反抗作戦の開始を告げる鐘の音となるのだった。
 
 

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